目次
キエフ・ルーシ以前のウクライナ
黒海北岸にギリシアの植民都市があったが、大部分はスキタイ。
スキタイは遊牧騎馬民族だけど、農耕スキタイという区分もあって、ギリシア都市の食料庫となっていた。
スキタイはサルマタイ人によって滅亡。ヘロドトスとかはスキタイの記録は残したが、サルマタイについて書いた人がいないせいで今もよくわからない。
そのあと、ゴート、フン、アヴァ―ル、ブルガールがきたけど、スキタイほど積極的に交易をしなかったようで、遺物が少ない。
キエフ・ルーシ公国
キエフ自体は東スラブ人が作った都市という伝説があるが、そこを占領してキエフ公国にしたのは北欧のヴァイキング。つまり、ヴァリャーグ人。
バルト海沿岸からヴォルガ川→カスピ海。ノブゴロドからドニエプル川を下って黒海→コンスタンチノープルという交易ルートを作った。
前者はハザール可汗国、後者はビザンツ帝国が取引相手。
リューリクから始まる系図はめんどい。オレフの代にキエフ・ルーシ公国ができた。
その後、ギリシア正教に改宗したり、公の名前がスラブ化したりして、絶頂期を経て衰退期に。
衰退期の要因は分割相続もあるが、地中海交易路の活性化で、北ルートが重視されなくなったため。
モンゴル襲来
12世紀には10~15の公国に分裂。ウラジーミル・スーズダリから別れたのがモスクワ。南西部のハーリチ・ヴォルイニ公国が重要。
1222年モンゴル襲来。キエフ・ルーシの諸侯のうち9人、6万人が戦死。
1237年バトゥ襲来。キエフ陥落→諸公国はキプチャク汗国の支配へ→タタールのくびき。ただし、モンゴルは支配と税収が目的。ある意味パクス・モンゴリカ。だからマルコポーロも東方へ行けた。
タタールのくびきで重要なのはハーリチ・ヴォルイニ公国。
ダニーロが有名で、モンゴル支配下にあったが、国を守り、リヴィウ(リヴォフ)を建設。
リトアニア・ポーランド時代
14世紀にリトアニア南下でウクライナへ。リトアニア貴族は正教に改宗し、少数だったためルーシ貴族を活用→キエフ・ルーシ公国の後継者に。
ポーランドはハーリチ地方を侵食。カトリックだったので反発も。その後、ポーランドとリトアニアが合同。
貴族の力が強まり、農民が農奴化。一方でユダヤ人の楽園。領主の手先として見られ、虐殺の遠因に。
ユニエイトの登場。ポーランド支配下で、カトリックと正教の折衷。
コサックの時代
キプチャク汗国、クリミア汗国の弱体化によって治安悪化。
ノガイ・タタールによる奴隷狩もあってウクライナは人口希薄化。
→ウクライナは肥沃な無人地帯に→そこにフロンティアを求めた移住者
→タタールに対して自衛→コサック(トルコ語で分捕り品で暮らす人の意)登場
逆にタタール襲ったりして、強大化。コサックは国境守備隊や大貴族の私兵に。
ドニエプル川沿いにコサックの町が。チェルカッシ、カーニフ、チヒリン
指導者はヘトマン、その下に長老(スタルシーナ)
海上でも略奪。
ザ・ポロージュ・シーチの誕生。→ザポロージュ・コサックの由来
対照的なのはロシア辺境のドン・コサック。
ポーランドによってコサック登録制度。登録コサックの地主・保守化。
ポーランドとコサックの対立→サハイダチニーから反乱の歴史が始まる。
コサック最大の英雄ともいえるフメリニツキーの蜂起。
ウクライナをまとめ、ヘトマン国家を形成するが、ポーランドに対抗するためロシアと保護条約。
これがロシアのウクライナ領有の最初の根拠に。
フメリニツキー死後、ウクライナは荒廃。17世紀にポーランドとロシアでウクライナ分割。
ドニエプル右岸はポーランド。左岸はロシアの支配下に。
右岸ではコサック制度は廃止。ポーランドによる大貴族制支配。それに抵抗するのが「ハイダマキ」(野武士?)。
後のポーランド分割でウクライナの大部分はロシアに。西ウクライナの一部はオーストリア。
左岸にヘトマン国家は残るが、コサック同士の対立を煽ってロシアが支配。
18世紀にロシアによって左岸のヘトマン国家は併合→コサックはオスマントルコを経てクバン地方に移住。
ウクライナの穀倉地帯と工業化
18世紀にポチョムキンが総督としてウクライナを支配。オデッサ、ニコライエフといった穀物輸出港が整備されてウクライナは「ヨーロッパのパン籠」に。
貴族は儲かるが農民は貧しいまま。
穀物輸送のため鉄道が敷かれ、そこから工業化。鉄道に必要な石炭と鉄がウクライナ南東部に豊富に存在。
ドンバスの大炭田、クリヴィーリフの鉄鉱山でウクライナ南東部は工業化したが、素材が中心で加工業は発達せず。
工場労働者はロシア人が多い。工場がある都市部はロシア語が一般だが、農村部はウクライナ語が主流だったため。
ウクライナの農民は都市の工場労働者になるよりは、極東地方への移住や、先になるが新大陸へ。
中央ラーダによるウクライナ独立
第1次大戦中のロシア革命をきっかけにウクライナ諸政党をまとめた中央ラーダが成立。
ウクライナ史の権威フルシェフスキーが議長に。軍事指導者はシモン・ペトリューラ。
社会主義政党だがボリシェビキではない。
ウクライナのボリシェヴィキは工場労働者、つまりロシア人が中心でウクライナ人は少なかった。後にモスクワにのまれる。
10月革命でボリシェヴィキが政権を握ると、中央ラーダのウクライナ国民共和国と対立。ハルキフにウクライナ・ソヴィエト共和国。赤軍がウクライナに侵攻し、中央ラーダはキエフを放棄。
中央ラーダは独墺に支援を求め、独墺軍はウクライナをボリシェヴィキから奪還。ウクライナの穀物が目的だったが、これで現地での評判を下げる。
独墺は元ロシア貴族でウクライナ最大の地主、パヴロ・スコロパツキーを傀儡にしてウクライナを支配。→各地で反乱→そもそも独が休戦で撤退。中央ラーダの後身、ディレクトリア政府がウクライナ国民共和国を復活。
一方、墺支配下だった西ウクライナでも西ウクライナ共和国が成立したが、ポーランドに潰され、国民共和国に合流。名ばかりだがウクライナの統一が成った。
ディレクトリア政府は北と東は赤軍、西からはポーランド軍、南東ドン川方面はデニーキンの白軍、さらに南西ドニエストル川方面からルーマニア軍、内部にアナーキストのマノフ軍と四面楚歌な状態。赤軍によって潰され、ペトリューラはポーランドに亡命。ポーランドソビエト戦争で復権したが、戦争終結でさらに西欧に亡命した。
ウクライナ人は農民が主体で、都市部はロシア人が多数派。都市部のウクライナ人もロシア文化に染まっていて、ウクライナ民族主義が根づいていなかった。さらに外的要因が悪すぎた。圧倒的なリーダーも不在。
第2次大戦とウクライナ独立
第2次大戦前はソビエト・ウクライナ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアの4つに分かれていたが、大戦後はソビエトウクライナによってウクライナは一つの国に。
フルシチョフ時代にクリミアのウクライナ移管
ウクライナ飢饉、独ソ戦による荒廃、UPAの抵抗
日本とウクライナ独立派の接触→ロシアファシスト連合を支援するため交渉打ち切りに
1991年独立
コメント