「狂気の男爵」--そんなあだ名で知られた男が、ロシア革命と辛亥革命に揺れるモンゴルにいた。
男の名前はロマン・フョドロヴィチ・ウンゲルン・フォン・シュテルンベルグ。日本ではウンゲルンの名前で知られている。
当時、モンゴルは中国の支配を逃れようと、西からやってきた大国・ロシアの力を借りていた。
しかし、ロシア革命によって、その支援を受けられなくなったモンゴルは、辛亥革命で弱体化したとはいえ、勢力圏を取り戻そうとする中国の庇護下に戻らざる負えなかった。
そんなモンゴルを救ったのが、狂気の男爵ウンゲルンだった。

胸に着けているのはゲオルギー勲章か。
目次
輝かしい栄光を求めて
ウンゲルンは1886年、グラーツ(オーストリア)のドイツハンガリー系貴族の家に生まれた。つまり、マジャール人の血もひいていたようだ。彼の家はほどなくして当時ロシア帝国だったエストニアに移り、そのままロシア皇帝に仕えた。
英語版wikiの記述を見ると、彼の家は元々バルトドイツ系だったと書いてあり、よくわからない。バルトドイツ人だからエストニアに戻ったのだろうか。
いずれにせよ、バルトドイツ人が重用されたロシア帝国では、ウンゲルンの忠誠心はツァーリに向けられ、それが白軍参加の理由となったようだが、もう一つ重要なのは、彼が「マジャール」の血をひいていたことだ。
祖父が冒険好きで、ザバイカル地方に流刑になったというエピソードがあり、ウンゲルンも自身に流れるアジアの血を意識していたようだ。
パヴロフスク軍事学校を卒業したウンゲルンは1908年、ザバイカル・コサック部隊のアルグン連隊に配属され、1910年にはアムール・コサック部隊に異動。時期は不明だがロシア領事館警備隊員としてフレー、中国名庫倫(クーロン)にいたこともあり、1913年にはウリヤスタイにいた。
領事館警備隊時代、ウンゲルンは、普段は寡黙な男だったが、時折、夜中に部下のコサック兵を集めて喚声をあげながら、草原に駆け出したという逸話がある。
モンゴル革命未だならず
ところで、当時のモンゴルはどんな状況だったか。
満洲の女真族が支配する清にとって、当初、モンゴル族は同盟者だった。しかし、清の勢力が拡大するとその力関係は支配するものと支配されるものになっていた。
清末には国内の内政問題を解決するため、漢人開拓者を北辺防備もかねてモンゴルに送るほど、清にとってモンゴルは重視されるものではなくなっていた。
現在のモンゴル国は、当時のモンゴルのうち、外蒙と呼ばれる地域になる。現在の内モンゴル自治区は内蒙と呼ばれていた。早期に清の支配が強まっていた内蒙に比べ、外蒙は清による支配といっても、現地の支配者層を利用した間接統治だった。
そういった間接統治を改め、清による直接統治が強まったのは1910年のこと。
これを機に外蒙のモンゴル人支配層はロシアの力を利用して、清からの独立を目指した。
この企てはある程度成功し、1911年の辛亥革命で清が倒れると、チベット仏教の活仏ラマ・ボグドハーンを君主として外蒙は独立を宣言した。
しかし、辛亥革命の混乱が収まると中華民国は独立したモンゴルへの干渉を強め、1915年のキャフタ条約でモンゴルは中国を宗主国として認めなければならなくなった。
そして、1917年のロシア革命でロシア帝国の後ろ盾がなくなると、1919年に中華民国は外蒙を占領。モンゴルの自治を撤廃した。
一度は独立を手にしたモンゴル。しかし中国の圧力はすさまじく、かろうじて維持していた自治も失ってしまった。
そんなときに現れたのが狂気の男爵だった。
ウンゲルン、白軍に参加
第一次大戦がはじまると、ウンゲルンはヨーロッパ戦線で戦い、勲章も得ている。その後、ネルチンスク連隊に所属し、カフカ―ス戦線を戦った。
ここでウンゲルンは後の白軍の大物にして上司になる、グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフに出会った。
1917年に十月革命が起こり、ボリシェビキの権力が確立されると、ウンゲルンはツァーリへの忠誠を宣言。セミョーノフとアジアで赤軍に対抗する白軍を組織した。ウンゲルンはアジア騎兵師団の隊長を勤め、ウンゲルンとともにシベリア出兵でやってきた日本の支援も受けながら赤軍勢力と戦っていた。
しかし、ソ連は1920年に極東共和国を日本との緩衝地帯として設置。すでにシベリア撤退を考えていた日本は、極東共和国を承認。セミョーノフからも手を引いた。
すでに白軍主力のコルチャーク軍は赤軍に敗れていて、セミョーノフ軍もすぐに壊滅することになるが、ウンゲルンはその前に彼から離反していた。日本との関係をごまかすための偽装したものだったと言われているが、離反したウンゲルンが目指したのは――「モンゴル」だった。
モンゴル国再興
1920年10月、ウンゲルンはモンゴルに侵入した。付き従うのはアジア騎兵師団。内蒙のハラチンやバルガ、そしてブリヤート人が元々の部下だったが、侵入した部隊にはオクレンブルクのコサック兵800騎に加えて、中国人、朝鮮人、そして日本人顧問の姿もあった。フレー(庫倫)に迫ったときには2000人ほどの戦力だった。
当時、フレーには一万人前後の中国兵がいたとされるが、現地徴集兵もみられ、数字通りの戦力だったかは疑わしい。だが、ウンゲルンの第1次フレー攻撃は失敗に終わった。
ところで、現地の中国官憲はボグドハーンを始めとしたモンゴル側高官を監禁していた。ウンゲルンは第二次攻撃をボグドハーン救出から取り組むことになる。
1921年1月のある日、ウンゲルンに雇われたブリヤート人が現地のチベット人の力も借りてボグドハーンを救出。ボグドハーンという錦の御旗を得たウンゲルンは一気に攻勢をかけ、2月4日、フレーを陥落させた。
フレーを確保したウンゲルンはボグドハーンの復位式を行った。モンゴル国は再度、独立したのだ。
とはいえ、ボグドハーンは「ウンゲルンの命令に従うべし」とした勅諭をだすことになったが。
ウンゲルンの最後
スウェーデンの中央アジア探検家、スヴェン・ヘディンはウンゲルンを「中国の束縛からモンゴルを解放した」と讃えている。
しかし、ウンゲルンは単なる解放者ではなかった。
フレー陥落の後、ウンゲルン指揮下の兵たちは現地のユダヤ人たちをはじめ、中国人らを虐殺してしまった。
そして、あろうことか味方のはずのモンゴル人もその魔の手から逃れることはできず、モンゴル人民党を中心としたウンゲルンに反発する人々はウンゲルンからの解放を望むようになった。
ウンゲルンのモンゴル掌握を重く見たのは、ソ連だった。
せっかく極東共和国で日本の干渉を退け、セミョーノフの白軍を壊滅させたのに、ウンゲルンが第2のセミョーノフになっている。それどころか、ウンゲルンの背後には日本軍がいるかもしれない(実際には、ウンゲルン軍に参加した日本人は大言壮語の輩で、日本軍の支援はこの時点ではなかった)。
危機感を強めたソ連はモンゴル人民党のスフバートルらを援助して義勇軍を組織させるとともに、赤軍と極東共和国軍を派遣した。
ウンゲルン軍は義勇軍には一定の勝利を収めることはできたが、モンゴル兵の脱走は止まらない。結局、キャフタの戦いで赤軍を主力とした合同軍に敗れ、フレーもウンゲルン不在を突かれて義勇軍の手によって陥落した。
敗北したウンゲルン軍はロシア領に逃れるがそこでも敗れ、モンゴルに退却した後赤軍に捕まることになる。
このときウンゲルンを捕まえたのが、最後まで彼に従っていたモンゴル兵を率いたスンドゥイ公という人だ。彼はウンゲルンにタバコの火をねだるふりをして、ウンゲルンが手を出すと、その手首をつかんで引き寄せ、そのまま取り押さえたという。
ウンゲルンを赤軍に引き渡され、1921年9月15日、ノボシビルスクでソ連によって処刑された。
モンゴルの解放者か、それとも残虐な狂気の男爵か
ウンゲルンはモンゴルの解放者か、それとも残虐な狂気の男爵か。
彼は第1次大戦前、ザバイカル勤務で乗馬技術を習得し、モンゴルではモンゴル人と交流し、言語や文化への理解を深めた。内外モンゴル、ブリヤート、トゥバ、そして満州の一部を含めた「大モンゴル国」を構想し、セミョーノフとウンゲルンが国軍を率いる計画だったという。
日本語資料からはウンゲルンの実像はなかなか見えてこない。残虐な人間性を伝えるエピソードはあるが、彼が赤軍に敗れた人間であることは考慮するべきだろう。
ウンゲルン軍の連絡役だった亡命白系ロシア人、パルコーフの手記などを利用した『ウンゲルン男爵-黒い騎手』という本があるそうだが、邦訳はない。読みたい。
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